THE 抱きしめるズ / ラブレター

今日も聴こえる。
おかえりなさいの代わりに、心地いい音楽が仕事を終えた私を迎えてくれる。
そのことに気づいたのは、私じゃなく元彼だった。
「何この音」
私の部屋へ向かう途中、どこからか音楽が漏れてきていた。時刻はもうすぐ20時、目覚ましにはまだ早い。
「部屋で大音量で聞いているのかな、迷惑だよね」
優しい元彼は私にそう言ってくれた。
そうだね、とは言ったが、本当は私は迷惑とは思っていなかった。
知らない曲だったけどすごく好きな感じの音楽で、不思議と心が安らいだ。違和感というものが去り、ずっと前から好きな曲だったような気さえした。

その曲は思いの外私のツボに入ったらしく、暫く私の脳内トップチャートの上位に居続けた。
私はふと思い出してはその音源を探そうとしたが、見つけることは出来なかった。



それから何日かして、再び音楽が漏れている時があった。
以前とは違う曲だがやはり耳馴染みのいい歌だった。
耳をそばだててその音の主を探った。
どの部屋から漏れてるのか突き止め、こう言ってやりたかった。
その歌が好きなので、音源をください。
野良猫に心配されるまでそうしていたが、ついに部屋は分からなかった。

諦めた私は、その突然の歌のプレゼントを楽しみに帰るようになった。意識してみると、ほぼ毎日それは聞こえてきた。
言い回しや使用楽器が特徴的なため、歌のジャンルはだいたい絞れてきた。
まだ流れてきたことはないが、きっとこの音の主は抱きしめるズあたりが好きなのだろう。
またごく稀に音の主自身が歌っていることもあった。
相変わらず知らない曲だったが、その歌声はお世辞抜きに上手かった。



帰省から帰ってくると、その音がパタリと止んでしまっていた。
幾日待っても、以前のあの音楽が流れてこない。私がどんなに疲れて帰って知らんぷりで、私は酷く落ち込んだ。
部屋には似た音楽が沢山集まっていたが、それらを聴いても私の悲しみが埋まることはなく、心が欠けたまま、また朝が来た。

私は自棄になり、集めたCDを窓から投げ捨てた。カラカラと音を立ててマンションの駐輪場に散らばった。幸い通りがかった人はいなかったようだった。

面白みのない一日を過ごし帰ると、流石に多少の後ろめたさを感じていた私は駐輪場に向かった。しかしCDは無く、誰かが片付けた後だった。
全くどうかしている。これであの音楽だけじゃなく、その代替品も失ってしまった。



きみがいてくれるなら、この世界がぶっ壊れても構わない

すぐ後ろの公園のベンチの辺りから聴こえてくる。
一言一言確かめるように、私の落書きの入った歌詞カードをささやかに読み上げていく。
ずっと待ち焦がれた、あの声で。
彼の脇には、私が投げたCDが積み上げられ、彼はそれを一つ一つウォークマンで聞いていた。
反対側には、1枚の白いCD-ROMがあった。
私はそれが欲しいと思った。
なんと言えば貰えるか、分からないまま言葉が口をついて出た。
 
 
 
あなたの歌が好きなので、そのCDをください。

ほねでざいん honesty-to-desire.inc

あれもしたいこれもほしい、欲求に正直なホモサピエンスのチラシの裏 I live honesty to my desire.

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