lifelogの落日を待つアナログびいきのweblog

Twitterは、「ツイート」と称される140文字以内の短文の投稿を共有するウェブ上の情報サービスである。


私たちにとってTwitterは、これまで自らの思考の漏れ出し先、そして他人の思考を垣間見るための世界樹だった。ただそこに属するも属さないも、個人の自由。また脳内全てをさらけ出すもよし、一部のみ見せるもよし。

誰かの言葉をきっかけに即席のコミュニティができ、ブームが去ると自然と解散するのも気兼ねがなくてよい。趣味やそのタイミングの娯楽、友人同士交流するのに、これ以上に成功しているツールは他に無いと言っていいだろう。


ただ私はこのツールが、私が大人になってから生まれたものでよかったと思っている。

学生時代、授業中に誰彼と交わしていた手紙交換のあのスリル、高揚感。交換日記を書くために何時間もかけて選んだペン、シール。交流することに楽しみがあれば、憧れることにも楽しみがあった。

好きなあの人の考え方は、テレビや雑誌でしか知れなかった。十数年たった今でも、あの時ああだったよねと思い出せるのは、そういう記憶だ。




平成になってから生まれてるのに未だこんな感覚なのも時代遅れなのかもしれないが、デジタルのデータに想い入れを感じるのは難しいのではないか。

・・・こんなこと言うと、アラサー入って厨二病かよとか言われそうだけど、自分自身がそう思う以上に、「炎上」事例がそう示していると思う。


断わっておくけど、「炎上」の内容はケースバイケースで、どう見ても犯罪・法令違反ならやった人が悪いし、芸能人のアンチみたいに理不尽なのは可哀想だと思う。

だけど前者って、わざわざほかの人に

「ほら見て!こいつこんなことしてるよ!これ犯罪だよ!悪いやつでしょ!」

って晒す必要ってあるのかな。ひっそりと通報するだけでいいんじゃない。

SNSがもしこの世に無くて、その悪事を自分だけが知っているんだとしたら、警察に密告するだけだったはずだよね。


日本という国は道徳観念が強く根付いていると思う。順番を守るのは当たり前だし、そのへんにゴミを投げ捨てていくのも悪いことだとわかっている。いい意味でも悪い意味でも、「みんなが見てる」から保たれてる平和がある。

ところが子供の頃は一時的に、責任を免除されている(本当は親が肩代わりしてるだけだけど)ために、多少の悪事が本人には大きく影響しない。加えて子供は、「目立つことをやるやつがスゴイ」と勘違いし、憧れがちだ。年齢的に大人であっても、それを勘違いしているのは子供だ。

自分の立場・責任を誤って認識した結果、悪事を自慢なんて冗談みたいなことをしてしまうのが、子供の習性なんです。大人はみんなそれがわかってるから、大事にしないようにしたり、せめて再スタートできるように更生の道を用意しているわけ。


でも「炎上」っていつも住所氏名まで明らかにされちゃって、更生しても再スタートが非常に難しくなってる。なんでそんなことになるかというと、「炎上」させる側もまた子供で、その後相手がどうなるか想像できてない。

そしてたちが悪いことに、道徳は義務教育期間に植え付けられてるから、”勧善懲悪”こそが正義だということは知っている。これが本当にたちが悪い。自分たちは正義だから何をしてもいいと言わんばかりに、徹底的に叩く。その様はさながらカルト教団だよ。

結論を言うと、炎上ってする側もさせる側も双方子供で、想像力が足りてないということです。


Twitterでやりとりしている背後に人間がいるとわかっていても、その人の言葉であっても、決まった画面決まったフォントで出力されるそれは、やはりデジタルデータと言わざるを得ない。

それを誰がどんな気持ちで、どんな背景があって発した言葉か、そこに興味が湧いてこないんだ。


私はそこに気づかない人々が恐ろしいし、そうなりたくない。

だからひっそりとTwitterが廃れ、かつてのような手紙文化が再興することを待ち望んでいる。




いやあのね、違うの。(なにが)

文房具屋でアイデアノートとペンを買って試し書きしてたら、なんか止まらなくなっちゃっただけなの(違くない)

ほねでざいん honesty-to-desire.inc

あれもしたいこれもほしい、欲求に正直なホモサピエンスのチラシの裏 I live honesty to my desire.

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