四日後、祖父が灰になる。

右ねじです。


僕がこの世に生まれた理由は何だろう。何者かになるため?誰かを愛するため?それとも人類の版図を広げるためか。どれであっても志半ばなわけだが、1つだけ何か成果を残せたと思うのは、祖父に孫の顔を見せてやれたことだ。どうも僕です。


先日、祖父が亡くなったと連絡があった。午前3時だ。あわただしい中連絡をくれたに違いない。午後には通夜と告別式の日取りが決まり、会社に休みを取った。

病を患い余命宣告をされていたから、何かの折に会いに行かなければと思ってはいた。実際、先月そのチャンスがあり親と共に会いに行く途中、本人が発熱していることがわかり会うのを取りやめていた。あの時がきっと、生きた祖父に顔を見せる最後の機会だった。

ただ仮に顔を見せられたとして、寿命が延びたわけでもないだろう。正月に親族みんな集まっていたのだから、きっとライフは満タンだったはずなのだ。


我が家はかつて父方の祖父母と同居していて、今回亡くなった祖父とは同居していなかった。そのため思い出せる祖父の記憶というのはかなり少ない。仕事の延長で祖父にパソコンを調達してあげたなぁとか、テニスが得意だった人なので、妹と一緒に一度教わったなぁとか。

同じ市内に住んでいたから、両親と妹と年に何度も会いに行っていたけど、何のためにだったのかはわからない。コーヒー飲みながら話して、一緒に夕飯食べに行って、パソコンやカメラの話をして(祖父はカメラ工場の工場長だった)、21時くらいになったら帰るってことがよくあったな。

僕は祖父が怒っているところは見たことがない。ビットコインが出始めの頃、マイニングをやってると言ったら「仮想通貨なんてよくわからないもの、詐欺かもしれないからやめたほうがいい」と言われたとき、珍しくマジだなと思ったくらい。


年始に必ず顔を合わせ、お年玉をもらっていた。いつしか代わりに酒を注いでもらうようになり、僕がほかの親戚にお年玉をあげるようになると、仕事には根気が重要だと何度も言っていた。僕は普通の人よりもストレスのいなし方をわかっているつもりだったけど、本当にその通りだった。想像以上に仕事というのは、根気だけでもってこなすものになっていた。

営業職だった時より技術職の今のほうが根気。とにもかくにも「どうやって実現するか」を考えるのが仕事。それをよくわかっている人だった。


僕は明日、体温を測ってから手伝いに行く。何のかと言えば葬儀の準備である。葬儀ってだいたい故人の家族の家長が喪主を務め、葬儀社の手配等々を突然やることになる。喪失感を抱えた上に忙しく、普段やらない判断をやらなければならない強制イベント。

祖母はどんな状態だろう。長女の母はどんな状態だろう。そこに興味があるというと語弊があるけど、いつか自分にもそういう時が来ると考えると、周りで何が起きるかはしっかり覚えておかないといけないだろう。その時には僕ももう、我が家をレペゼンしないといけない立場なんだから。


葬儀の時、お坊さんにお布施をいくら渡すか、という話がある。しょぼい金額だと、僧侶から「故人が浮かばれませんよ」と言われるが、じゃあいくら払えばいいかと聞くと「お気持ちで」と濁されるため大きい金額にしておくしかない、という話である。


この話、一体どんな理由で浮かばれなくなるのかが謎だと思う。

お坊さんというくらいだから仏教徒なのだろうが、鎌倉仏教は念仏を唱えることなどを通して天国に行ける的な話じゃなかったっけ。それが間違っていなければ、故人自身の姿勢だけが浮かばれる/られないを決めるはずだ。

なぜ遺族が葬儀を執り行ったお坊さんに渡した金額が影響するんだろうか。受け取った金額が安かったからと言って、葬儀を適当に済ませるお坊さんがもしいたら、故人よりそのお坊さんの方が仏の怒りを買いそうである。

固定の金額を提示してくれず、お布施を吊り上げようとするお坊さんに遭遇したら、僕に教えてほしい。その理由を教えてもらいたいから。もしかしたら今はそういう悪評はすぐネットに書かれるから、そんなお坊さんはもういないかもしれない。


遺族、とくに喪主の立場の人はきっと、葬儀をなるべくしっかりやってあげたいと思うだろう。

故人が見ているのだとしたら、それはきっと意味がある。


もし死後の世界というのが存在しないとしたら、それに意味はあるのだろうか。

死後の世界が存在するという確証は、現時点で得られていない。天国も地獄も想像の産物と言うしかない。死してなお現世にとどまる幽霊と言う存在も、その点では同じである。宗教において語られる死後の世界は、宗教が統治機構としての側面を持っていた文化的背景から、道徳教育上の道具にすぎないと僕は思っている。すべてはウェルビーイング的な考え方を補強するだけのものだと思う。

しかし、「実在しない死後の世界の存在」を前提として考えた場合、葬儀には意味があると思う。もちろん故人が浮かばれるという意味ではない。遺族が浮かばれるという意味だ。


僕たちは、互いを言葉や視覚・聴覚などの情報で定義して認識している。僕の右ねじと言う名前、顔、声の情報が合致するからあなたにとって僕は右ねじになる。そのうえ、記憶と言うのもまた、言葉・視覚・聴覚などの情報を蓄積したもの。長く一緒にいた人の情報ほど、自分の中に多く蓄積されている。ペットは飼い主に似るとよく言うが、長い間見ているから、その人の情報が多くなり、言動が似るというのは確かにあり得るのだろう。

誰かが息を引き取るとき、故人に近しいものから順に、故人に受けた影響は大きい。そのひとの持つ故人の情報が多ければ多いほど、その情報を蓄積するほど好意的に思っていた存在の喪失は、重い鉄槌となって遺族を襲うだろう。

ところがそこで、葬儀という強制イベントが発生し、「なるべくきれいな状態で」、「故人を慕う人に別れの機会を与える」。その葬儀は宗教により様々だが、形式が決まっていて、大枠はシステマティックに進めることができる。この葬儀は5分や10分で終わらない。1~2時間かけて、場合によっては数日かけて行われる。

仏教の場合は、四十九日後にもう一度、百日後にもう一度、さらに一周忌にもう一度法要がある。

四十九日は「故人が死後よりよい世界に行けるように」行うものだが、百ヶ日については「もう泣くのはやめる」的な日になっている。それはもう遺族のためでなくて何のためのイベントなのか。


葬儀に訪れる弔問客は、故人との別れを惜しむが、その際に故人のことを強く思い出す。これまでの個人の情報と棺桶で横たわっている姿を照合する。そして個人の情報を棺桶の状態で確定する。死を確認する。

この人は既に亡くなっている。その目で認める。


故人と長く連れ添った人間ほど、その事実を認めたくないというのはあるだろう。しかしだからこそ、遺族が葬儀の手配を行う必要がある。人が死ぬと様々なところにその事実を告げなければならない。それこそ弔問客への連絡なんかがそうだ。何度も何度も、自らの口で事実を伝える。そうする必要がある。認める必要がある。


葬儀は時間をかけて、故人の死を受け入れ、残された人々が立ち直っていくために存在する。

(いやまぁ遺体処理の制度化とかもあるだろうけど)

であれば故人のために遺族が葬儀に力を入れるのは、その分別れを強く認めることでもある。

よって、死後の世界が仮に存在しなくても、葬儀をしっかりやることには意味がある。


そして、この文章は、僕にとっては意味がある。


明日の朝、僕は祖父の死を認めに行く。

ほねでざいん honesty-to-desire.inc

あれもしたいこれもほしい、欲求に正直なホモサピエンスのチラシの裏 I live honesty to my desire.

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